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しろはた三国志(改訂版)
日本においてもっとも「三國志」の物語を普及せしめた作品は、言うまでもなく戦前に書かれた吉川英治版「三國志」である。この小説は中国の小説「三国志演義」を日本人に受け入れやすいように翻案したものであるが、「演義」という二文字を省いたために、以後、日本では長らく歴史書の「三國志」と小説の「三国志演義」が混同されることとなった。つまり、小説「三国志演義」は、歴史書である「三國志」に描かれた三国時代の歴史を、物語として脚色して作られた文学なのであって、実際の史書ではないのだが、その当然の事実を多くの人間が忘れてしまったかのようになっていたのだ。
例えば、「平家物語」が、源平の合戦を元に書かれた文学作品であって、史書ではないというのと同様に、「三国志演義」もあくまでも文学なのである。
そしてこの「三国志演義」ものは、漢民族が北方の異民族に中原を追われて江南へ避難するという民族的トラウマを経るうちに、自然、主人公は曹操に中原を追われて蜀に「漢」なる亡命政権を築いた劉備とその宰相の諸葛孔明ということになっていく。この「蜀漢正当論」は、当然、史書「三國志」が書かれた西晋の時代には無かったものである。漢民族が中原を追われ、蜀漢同様に遠地にて亡命政権を築かざるを得なくなった時に、亡命政権の先駆者として蜀漢が見直されたのであろう。だから、当時の民衆は、漢の復興を果たそうと大国・魏に挑み続ける孔明の姿に、己を重ね合わせて熱狂したのだと思う。このような状態の時には、同様の理由で朱子学も昂揚している。農耕民族である漢民族のアイデンティティは、それまで、中原という土地にあった筈だ。しかし、中原の地を異民族に奪われた結果、漢民族のアイデンティティは、土地という現実主義の権化たる存在から、「漢民族」という民族意識、すなわち観念へと移行せざるを得ず、ここに地方政権でありながら漢の復興をスローガンとして掲げ続けていた蜀漢を漢民族の国家としての正当であるとする発想が生まれたのだろうと思う。
吉川英治が「三國志」を書いた時代の日本は、ちょうどこの時代の中国と似たような状況下にあった。アメリカという強敵に対抗することによって、民族主義という観念が、日本という国が始まって以来おそらく最も昂揚していたのである。つまり、当時の日本人は、日本を蜀漢に重ね合わせ、アメリカを魏に重ね合わせて、勝ち目のない戦争を続ける諸葛孔明の「座して滅びるを待つより、死して後やまん」という悲壮な決意を、日本のそれに重ね合わせていたであろうと思われる。そもそも旧日本帝国の熱狂的な民族思想の根幹には、南宋から輸入したところの朱子学思想が拭いがたく据え付けられていた。このような条件の下で、「三國志」が民間に流布することになったのも、歴史的な必然と言わねばならないだろう。
やはり同じ思想に基づいた結果は同じくなるということなのか、蜀がついに漢の復興を為しえず、魏の討伐を受けて降伏し滅亡したのと同様、結局、日本もアメリカに降伏して滅亡した。以来、「三国志演義」は日本人の民族意識とは別次元の物語として親しまれることになり、一旦そのような距離を置いてみると、作家たちはこぞって曹操というキャラクターに惹かれるようになり、横山光輝の漫画版「三国志」でチビだった筈の曹操が白面の貴公子として活躍したり、陳舜臣の「秘本三国志」のように「演義」の脚色を排して史書を読み返し、その結果曹操を魅力溢れる一代の英雄として描ききるような作品までもが登場したのである。
現在でも曹操を主人公とした漫画「蒼天航路」がヒットしていることから観ても、戦後日本において、突如曹操が再評価・・・というか、はじめて評価されたことは間違いない。ちなみに、本家中国では未だに曹操は悪役として民衆から憎まれており、蜀人気は全く衰えていないようである。イギリスだの日本だのといった(中華思想からみて)野蛮な異民族の侵略につい最近まで悩まされてきたかの地では、毛沢東の長征と諸葛亮の北伐が重ねあわされているのかもしれない。実際、革命軍を蜀にみたて、蜀が魏を滅ぼすという「反・三國志」が書かれている。
「演義」が史書に被せたところの、蜀漢正当論という朱子学的な民族主義のフィルターを通さずに、「三國志」を読めば必然的に曹操が主人公になるのではないか、とも考えられるものの、僕はどうも、戦後日本人が曹操を「武人でありながら一流の詩人だ」と持ち上げる感情の裏には、屈折したアメリカ崇拝の感情が隠されているような気がしてならない。曹操という人は当時の中国人としては異常なほど現実主義的でプラグマティズム思想の先駆者的な部分があり、自分の墓に金をかけたり宝物を入れるな、なんて当時の王侯としては非常識にも程がある遺言を残したりしている。さんざん人を殺しておきながら、戦争の最中に「戦さとは虚しいものよのう」と詩を吟じてホロリときたりするあたりも、普通に考えれば異常人格としかいいようがないのだが、この分裂ぶりは、日本と戦争をしながらハリウッドで大作映画をバンバン作っていたアメリカという国に、何やら通底するものがあるのではないか。
同様に戦後日本では、織田信長という人も、その先進的な合理主義や、「人間五十年」と敦盛を舞って合戦に赴くその芸術的センスを評価されて人気者になったが、この人も戦前では当然不人気で、評価していたのは坂口安吾くらいではなかったか。つまり信長も曹操もアメリカ人的な(非東洋人的な)キャラクターを評価されたわけだが、信長の場合、人生の中途で横死したために、「もし信長が生きていれば、日本を統一して世界をも征服していたかもしれない」という大東亜共栄圏妄想を投影することが可能であった。つまり、日本は朱子学的な民族主義に基づいて戦争を行い、非合理な迷妄に凝り固まったあげくアメリカに負けたが、信長のような先進的合理主義者が総領であれば、あるいは大東亜共栄圏を実現できたかもしれない、という気分が、信長を戦後日本の英雄へ祭り上げたのだろうと思う。
曹操の場合は、赤壁で敗北したあとも生き続けたために、そのような仮想歴史的な妄想の介入する余地がなく、それ故信長ほどの人気は得られなかった訳だろう。それに、日本人は敗れたとはいえ、やはりどうしても心の底では蜀漢正当論を捨てきれない。
しかし、曹操が決定的な主人公になる資格を有さなかったために、サラリーマン層は「蒼天航路」でビッグマンとしての曹操に自己を投影し、ブルーカラー層は「我王の乱」で侠客の劉備に喝采し、女性ファンは周瑜と孔明のやおい話に身をよじらせる・・・という世界にも希なる「三國志」ファンの棲み分け現象が発生した訳で、これはこれで実に興味深い現象である。
さて、以上はこの国における「三國志」なるものの概観であるが、そろそろ僕個人の三國志観を開陳しようと思う。
まず、劉備自身には、もやもやとした権力への欲望はあっても、国を興して皇帝になろうという具体的なビジョンは無かった筈だ。これは間違いない。それどころか、彼の人生の殆どは、傭兵として各地へ赴き、旗色が悪くなったら妻子配下を見捨てて逃走するという、ワンパターンの行動で占められている。場当たり的に公孫[王贊]や陶謙や呂布や曹操や伏完や袁紹や袁術と関わっているが、常に食客として振る舞い、何事をなすわけでもなく、旗色が悪くなると逃げ出しているわけだ。つまり、誰かの配下になって働こうという意志はなく、さりとて独立して一方の英雄になろうという度胸もなく、もっと言えば自分が何をしているのか、何をしたいのか、さっぱり判っていない人なのだ。
これは、義侠仲間の関羽と張飛にも言えることで、要するに彼らは負けそうになるとすぐ逃げ出す傭兵部隊を率いて大陸をうろうろ彷徨っていたにすぎない。関羽などはせっかく曹操に取り立てられても、何故か突然逃走して劉備の元に舞い戻っている。(「蒼天航路」は曹操を誇大に英雄視しているために、曹操が関羽に去られるくだりをはぶいている。ずるい!)その劉備も関羽が逃げてきたと知るや、袁紹の元から逃げ出しており、二人そろって夜逃げをして合流し、汝南で黄巾族の親玉になって暴れているのである。
全く、諸葛亮が幕下に加わるまでの劉備主従(主従というよりは義侠仲間だが)の行動原理というものは、いっさい見えてこない。彼らを、曹操や袁紹と対等の天下を望む群雄とみなして「演義」は書かれているわけだが、それ故にますます彼らが何を考えて行動しているのかが判らなくなっている。横山光輝も流石に官渡の合戦前後の「夜逃げ・合流・山賊働き」をやっていた頃の劉備主従のエピソードは全部割愛してしまっているし、最近では曹操主役の「蒼天航路」もこのあたりを省略していた。仮にも「漢王室の復興」を願っている劉備一党が、袁紹と曹操の大戦争の最中にそれぞれ逃げ出して田舎で山賊をやっていた、というのは、説明がつかないのである。
しかし、彼らが漢王室の復興などという大それた王佐の志も天下への野望も持たず、ただその日を楽しめればよい、まずくなったら逃げ出せばいいのだ、という気楽な傭兵部隊(ゴロツキともいうが)だったと考えれば、実に合点が行く。
要するに彼らは合戦のたびに傭兵部隊として出向いていき、群雄に食わせてもらい、いざ合戦が激化すると夜逃げしてまた次の仕事を探し、仕事が無ければ無いで山賊になって食いつなぐまで、という連中なのだ。恐らく、黄巾族の乱に対して私兵を組織して官軍に合流した最初の合戦から、彼らは、危なくなるたびに主君の本隊を捨てて逃走している筈である。
劉備一党は、最初に黄巾族の乱の平定に功績をあげ、田舎役人の仕事にありついており、本来ならこれで彼らの人生も一段落ついていた筈だった。しかし、劉備は中央から派遣された役人をボコボコに殴って仕事を捨てて逃走している。これを観ても、彼らが真面目に天下国家のために何事かをなそうと考えていなかったことが判る。しかも、一度ならず劉備は二度までも、官吏の仕事から逃げ出しているのだ。恐らく、彼は、口先ではいろいろとキレイゴトを言っていたのだろうが、要するに私腹を肥やすためだけに戦場へと立ち回ったり、役所においては絞れるところからさんざん絞ったりと、実体はまことに悪人であったに違いない。だから、ひとところに定住していられなくなり、逃げ出すしか無かったのだろうし、田舎で役所に勤めるよりも、修羅場の戦場へ繰り出したほうが「実入り」が大きいから役所つとめを嫌って傭兵隊長の仕事を本職にしたのだろう。
だから、諸葛亮に会うまでの劉備一党は、群雄のひとりとして数えるのではなくて、各地を流浪しながらいろんな群雄に仕官しては逃げだしたり、食い詰めれば賊となって町を荒らすという、歴史の完全な脇役であったと考えるべきなのだ。
そこには、漢王室の復興とか、曹操にないがしろにされている帝への忠誠心とか、そういう儒教的な思想というものは、かけらもない。そもそも、彼らは政治というものを行った試しがないし、行おうとした痕跡もない。役所に勤めてもすぐに逃走するのである。関羽は荊州をまかされたのちに完全な外交オンチであることを露呈してむざむざ呉を敵に回して滅んだが、張飛などはおそらく任地で酒ばかり飲んでいただけだろうし(だから名前も知れないような下っ端に寝首をかかれるのだ)、劉備も皇帝になっておきながら個人的な復讐戦を行って蜀を傾けてしまっている。三人とも、生涯、政治というものを理解できなかったのだ。だから陶謙からまんまと徐州を簒奪した時にも、呂布に奪い取られている・・・というか、呂布が徐州を治めていても食えればいいではないか、という具合に劉備は自分の恩を仇で返した呂布にあっさりと降参しているのだ。この時、劉備軍は食うものがなく、人間同士で食い合う様だったらしい。劉備一党にとって唯一求めるものは、つまり、食べ物だったのだろう。国を奪われるよりも食えなくなることのほうがはるかに恐ろしかった訳だ。この一件も、劉備が自分を群雄の一人だとは考えていなかった、と解釈しないと、わかりにくくなり、「韓信の股くぐり」的な臥薪嘗胆説話にしなければいけなくなるのだ。
つまり、蜀漢という国は、ただ一人、諸葛亮という人間が空想し、その空想を劉備一党という武力を使って現実に作り上げたものなのだ。
陳舜臣は、小説「諸葛孔明」において、諸葛亮が徐州出身であることから、恐らく彼は徐州の民を虐殺した曹操を生涯憎んでおり、そのために劉備についたのだろう、と書いているが、たぶんこれが正解だろう。諸葛亮が徐州で曹操軍の虐殺を目撃したのは、実に幼い頃であり、幼児期に植え付けられたこのような凄惨なトラウマは一生癒えるものではない。
諸葛亮はおそらく骨のズイまでアンチ曹操主義者であったのだろう。彼の知謀と情熱は全て、曹操の勢力を潰すことに注がれたのであって、彼が劉備に仕官したのは、彼に何らの政治も思想も理想も無かったからであろう。つまり自分の空想を現実化するためにもっとも好ましい実力者こそが劉備だったのだ。実際、劉備は「天下三分の計」を説かれるとあっさり諸葛亮に洗脳され、「君臣水魚の交わり」という言葉を吐くほどに諸葛亮に私淑した。「私の言う通りにすれば、貴方は曹操に匹敵する大英傑になれますよ」と知者孔明に理論整然と説明されアジられたのだから、学も思想もない劉備の喜びようは恐らく凄かった筈だ。当時、劉備は流れ流れて荊州の劉表に食わせてもらっていたが、さすがに汝南で山賊を働いたのがまずかったのか劉表には信用されていなかったし、肩身が狭い立場だった。しかも曹操が南下して荊州を獲るだろうことも見えている。無論、その際には新野から逃げ出して南荊州へでも走ろう、といういつものパターンの行動予定はあったものの、その先のことは考えていなかった、というか想像力の外であったろう。
とはいえ、身に付いた行動パターンは一朝一夕に改まるわけもなく、諸葛亮を迎えた直後に曹操が南下してきたのを観るや、やはり劉備は妻子を捨てて新野から逃げだし、江夏へ入って孫権と同盟している。この時に長坂橋で張飛がただ一騎曹操軍の前に立ちはだかったり、趙雲が劉備の息子阿斗を救って一騎掛けしたりと、劉備軍の豪傑が素晴らしい活躍をしているのだが、これは要するに彼らはこの頃になるとすっかり逃げ慣れていたということだろう。夜逃げ屋本舗とでもいうべきか。
そして特筆すべきことは、この後に劉備と孫権が同盟を結んで曹操を赤壁で破ったというくだり、ここには嘘が入っていると思われるのである。
実際には、劉備は、今までのパターン同様、孫権の傭兵部隊となって孫権に雇われたにすぎない。つまり、対等同盟を結んだのではないだろうと思われるのだ。さもなければ、戦後、呉が劉備に戦利品の荊州を貸し与えたり、孫権の妹を劉備に嫁がせたりしないのではないだろうか。孫権側はあくまでも劉備を、自分の家来の中の客人格、と考えていた節がある。
実際、もし対等の同盟関係であったならば、戦利品の荊州を同盟相手の劉備に孫権がわざわざ貸してやるなどという馬鹿な真似をする筈がないし、そもそも当時、呉の周瑜は荊州を獲った後に益州をも獲るという計画を立てて準備していたのだから、益州への通り道であり補給地である荊州を他国にくれてやる筈がない。周瑜は実際に益州攻略へ出発し、その途上で病死して計画が流れてしまったわけだが、もし劉備が孫権と対等の独立群雄であれば、周瑜は益州軍の兵糧をどうやって補給するつもりだったのだろうか。まさか呉から揚子江をさかのぼって兵糧を運ぶつもりだったのではあるまい。益州の道々でそのつど徴発するというのも無謀な話だ。周瑜ほどの武将がそのような場当たり的な遠征を計画していた筈がない。やはり、孫権の配下である荊州の劉備陣営から兵糧を調達するつもりだった、と考えるのが、一番自然である。
つまり、周瑜が益州遠征の途上で死亡したために、周瑜に代わって劉備が呉のために益州を獲ることになったのだ。
このことは、周瑜の配下であった庖統が、周瑜の死体を呉へ返した後に劉備の軍師となっていることからも、立証されているのではないだろうか。
「演義」では、庖統は風采があがらないので孫権に取り立てられず、仕方なく劉備の配下になったというふうに描かれているが、実際には、彼は益州遠征の際に周瑜の配下として働いていたのだ。周瑜の死体を呉へ返したくらいだから、周瑜の軍師という身分だったのではないだろうか。だから呉は、周瑜にかわって益州を獲ることになった劉備に、益州遠征のための軍師として経験者の庖統をそのままつけたのではないか。従って、庖統を信用せず閑職にまわしていた劉備に対して魯粛が「庖統は百里の才にあらず」と言ったのは、魯粛がお人好しだったからではなく、庖統を劉備が益州討伐軍の軍師として用いてくれなければ遠征計画が失敗すると慌てたからなのではないか。
こう考えると、何故劉備が益州に、諸葛亮ではなく庖統を軍師として随行させたか、という謎も、説明がつくではないか。
もっとも、劉備一党は、最初から、蜀を獲れば孫権から自立して諸葛亮の計の通りに三国の一角を占めるつもりだったろう・・・というか、劉備には自分の政治思想というものがなく、全ては諸葛亮の考えのもとに動いていた訳だから、諸葛亮は蜀を獲れば孫権から自立して国を建てるつもりだったろう、と言うべきか。庖統も諸葛亮と同門の友人だから、どうも周瑜が益州遠征の途中で死亡した裏には、この二人の荊州学士の陰謀があったような気がしてならない。
劉備はいつものパターンで、傭兵部隊を率いて蜀に入り、漢中から蜀を守ってやると言いながら実は蜀を奪うつもりであったわけだが、このような無茶が可能だったのも、劉備がそれまでひたすら傭兵部隊として各地を転戦し続け(実状は真面目に戦わずに逃げてばかりなのだが、そこまでは山中の蜀には伝わらないだろう)、敗走することはあっても仕事の最中に雇い主に襲いかかった試しは一度もなかった、という経験があったからこそである。実際、諸葛亮が配下になり全てを立案しはじめる前の劉備一党は、ただ食うためだけに傭兵をやり、何の野望もなく、単に危なくなったら夜逃げするというだけの軍団で、傭兵として役に立つかどうかは疑問ながら、仕事主に襲いかからないという最低限の仁義だけは守ってきた(というか、仁義を破りたくなるような野望すらなかったというべきか)。益州においてはそれまでのパターンを破って、雇い主の蜀主劉章に襲いかかり、益州を奪い取ったのだが、これはだから劉備一党の妙な信用を利用した諸葛亮の作戦だったのだろう。
それでも、戦というものを全く出来ない劉備は、せっかく蜀内部に軍を率いて入っておきながら、いざとなると苦戦し、[各隹]城を一年囲んでも落とせず、とうとう庖統を戦死させてしまうという有様に陥る。やむなく諸葛亮・張飛・趙雲が援軍として出発して、最後は馬超がたまたま亡命してきてくれたおかげでようやく成都を落とすことができたわけだ。
この間、実に長い日数が経過しているわけだが、皆さんは「演義」なり史書なりを読んでいて、疑問を感じなかっただろうか?
その間、いったい曹操は何をぼんやりしていたのだろう、と。銅雀台で遊んでいる場合ではないではないか、と。
劉備が益州へ入ったのは、建安十六年。曹操が馬超の反乱を鎮圧して漢中を伺った頃に、劉章が劉備一党を傭兵として雇い、漢中の張魯と戦わせようとしたのである。
翌建安十七年、劉備が裏切って劉璋に襲いかかっている間に、曹操は濡須に出ばって孫権と戦っている。
建安十八年の正月に曹操は濡須から退却。西では魏軍と馬超ら涼州の残党が局地戦を展開しているが、曹操は何もしていない。
建安十九年、諸葛亮らが蜀へ造園軍として入り、益州を平定。
曹操が漢中へ動くのは、翌建安二十年である。
つまり、劉備一党が蜀を獲るために四年もの間僻地で戦っていた間、曹操は全く荊州を攻めようとしなかったのである。これは、いくらなんでも妙ではないか。とくに、諸葛亮・張飛・趙雲ら留守組が入蜀し、関羽一人が荊州を守っていた間、全く動かなかったというのは理解しがたい。まさか関羽が怖くて荊州へ攻め込めなかった訳ではあるまい。関羽だけを残して主力軍は全て益州へ行ってしまっているのだ。後にやったように、呉と連合して荊州を分け取れば簡単に取れた筈ではないか。
そう、この時もまだ、劉備が孫権の部下であるとするならば、謎は解けるのである。荊州はこの時、れっきとした呉の領土だったのだ。曹操が濡須へ進軍したのは、劉備軍が遠征に出て呉の守りが手薄になったに違いないと判断したからなのだろう。つまり、劉備の留守中に、曹操はちゃんと彼の本拠地である呉へと進行しているということになる。そう解釈しなければ、劉備の留守中に劉備とは別の群雄である孫権に戦争をしかけるという曹操の戦略は、とんでもない愚策であったというしか無くなるではないか。
そもそも荊州南郡を魏から奪ったのは周瑜であり、それをよその群雄の劉備に呉が貸す訳がない。「演義」では、周瑜が南郡を取り損なって劉備が入城してしまうというふうに描かれているが、これは劉備が孫権の配下であった事実を隠すための嘘だろうし、まず最初に史書「三國志」を作った陳寿が、蜀出身だったために、この事実を巧妙に隠ぺいしていると考えられるのだ。
劉備と孫権の妹の婚姻関係はすぐに破綻したが、孫権はなおも関羽の娘と孫家との婚姻話を持ちかけている。せめて荊州を守る関羽だけでも配下に止めておきたかったのだろう。やはり呉は、劉備一党を自分の家臣の中の有力者として認識していたのだ。呉という国は元々が豪族連合であった。
従って、魯粛が関羽に「荊州を返せ」と詰め寄った時に、関羽が何も返事出来ずにうつむいた、という史実も、劉備が蜀を獲るなり孫権を裏切って独立したという真実の傍証として読むことができる。「演義」では、この話も、荊州を返せと迫る魯粛を関羽が人質にとってビビらせて悠々逃げ去るという「蜀漢正当論」によって歪められた話に改竄されているが、ともかく荊州を巡るエピソードは「演義」の中でもっとも嘘に満ちており、史書がそもそも巧妙に真実を隠したためにこういうことになったとしか思えない。
結局、呉としては荊州を詐欺師・劉備に騙し取られたという恨みが最後まで消えず、半分を割譲させた後になおも荊州に進行して完全に劉備から奪い返した訳だ。
古来より、遠征軍がそのままその地を奪って独立するという事件は無数に繰り返されている。漢中の張魯政権は蜀から出発した漢中平定軍がそのまま独立したものだったし、そもそも呉国じたい、袁術の配下だった孫策が遠征先で独立したものである。陳寿は、孫策が主君を裏切ったことは明記しているのに、劉備が主君を裏切ったことは筆をぼかしているのだ。
蜀を滅ぼした魏の鍾会は、姜維にそそのかされて蜀の地で自立しようともくろみ、魏の将兵に殺されたのだが、いったい険阻な山に囲まれた蜀ほど、独立しやすい土地はない。恐らく姜維と鍾会の頭の中には、呉の遠征軍の大将であった劉備が蜀を奪ってそのまま自立し、皇帝にまで上り詰めたという先例があったものと思われる。
孫権の配下となり、政略結婚まで行って信用を得て荊州を借り受け、荊州を孫権に守ってもらいながらいつものように傭兵部隊と称して蜀へ入り、悠々と蜀を獲り、獲ったならば自立して三国の一角を占める。これが、諸葛亮が実際に劉備に提示した「天下三分の計」だったのだろう。この計は関羽が魏と戦っている最中に呉に攻められて破れたことで完全に破綻したのだが、恐らく、空想の学士だった諸葛亮は、呉には後で荊州南部を返してやればそれで独立の件は手打ちにできる、と計算していたのだろう。しかし現実には呉はいつまでも恨みに思い関羽を騙して殺し、劉備は関羽を騙し討ちされた恨みから呉へ無謀な出兵を行って蜀軍を壊滅させてしまったのだった。人間の「騙された」という感情というものは単なる算盤勘定でおさまる筈が無かったのだ。
諸葛亮という人は、実に複雑怪奇なキャラクターだ。政治家としては法家主義者であり厳格な法による統治を行ったのだが、しかし彼自身は自らを清貧で無私で忠義一辺倒の儒家主義者として喧伝しており、しかし実際の人間の性質としては隠遁を理想とする道家思想家に近い。つまり、彼は中国大陸における様々な思想というものを、その場その場に応じてうまく使い分けていたという思想の妖怪みたいな人なのだが、本質的にはやはり道家に最も近かったのだと思う。空想家であり、晴耕雨読の隠遁生活を理想とし、戦場における戦術を考えるよりも妙な新兵器の発明に凝るオタク気質であった。彼の最大の欠点は、人間を個別のなまな存在として感じることができず、常に自分の空想したシナリオの通りに他人が動くものと信じ込んでいたことであろう。
彼自身は法家主義に従った政治を行っているくらいだから、儒教というものを信奉していた訳では無かった筈なのに、ことあるごとに無私の忠義とか漢王室の復興とか清楚な私生活などといった儒教的正義のイメージを自分自身に粉飾させている。財産は痩せた桑畑だけだとわざわざ遺言したり、出師の表では民衆の感情に訴えかける悲壮な忠義心を吐露してみせたり、とにかく、漫画の主人公のような芝居がかった文章ばかりを残しているのだ。これは、厳格な法家主義による政治だけでは民心がつかめないと判断して、「忠義と無欲の人・諸葛孔明」というパブリックイメージを宣伝し、民心の掌握に利用したのか、それとも彼自身がこのような自己イメージに陶酔して「諸葛亮とは、そういう人である」と信じていたということなのか、ちょっと判断がつきにくい。おそらく、その両方であろう。彼は空想家であったので、たぶん、儒教的な徳と正義の体現者としての劉備および諸葛亮という空想を続けていくうちに、次第に、自分が実際にそのような人物であるという自己暗示にかかったのではないだろうか。そうでなくて、全て計算の上でやっているのなら、とんでもない劇場型人格ではないか。
例えば、「三顧の礼」という名場面も、実は諸葛亮が「出師の表」で述べているだけで、実際にはそのようなことは無かったと思われる。魏の史書には、荊州の劉備の元へ諸葛亮が直接会いに行って無為にダラダラ過ごしている劉備を説教し、そのまま配下になった、という話が残っている。当時の劉備が漢王室の復興や民の平和のためになんとかしたいと日々悩んでいたのならば三顧の礼も有り得るが、すでに述べたように劉備は単なる夜逃げ屋だったのだから、多分こちらが真相だろう。しかし諸葛亮は本気で三顧の礼があったと思いこんでいたかもしれないし、自分を喧伝するための作り話かもしれない。さらに言えば、劉備が遺言で「息子が無能なら、君が国を獲れ」と諸葛亮に言い残したという逸話も、どうも諸葛亮の妄想ないしは政治戦略が産んだ作り話のような気がする。ありていに言えば、諸葛亮は劉備が死んだ後、蜀の全ての権力を掌握して独裁者になった。普通ならば誅殺されても仕方のない立場でありながら、しかし、諸葛亮は「忠誠無私」という正義の自己イメージを喧伝することによって民心を獲り、保身を果たしたのだが、「私は先帝に国を獲れと遺言されたのですが、生涯帝の配下として休む間もなく働くことを誓った忠臣なのです」という逸話もまた、諸葛亮の独裁を儒教的美談によって美化した保身のための宣言ではないだろうか。
他にも南方の異民族を攻撃して植民地化した軍事遠征に対しても「七度捉えて七度放つ」という道徳的美談を持ち出すなど、どうも諸葛亮に関する逸話は、諸葛亮自身が作り上げた政治的なコマーシャルが多いような気がする。
また、諸葛亮は権力独裁の障害になる政敵の葬り方も、実に巧妙で、自分が遠征に失敗しておきながら「補給を怠った」という罪でナンバーツーの李厳(李平)を更迭した事件を筆頭に、廖立や劉封などの政敵を片っ端から左遷したり平民に落としたり処刑したりしている。その結果、諸葛亮没後の蜀政権には、ほとんど人材が残っていなかったほどである。これもまた、「忠誠無私」の人・諸葛亮の行いであるから全て「正義」であり私心はないものとされているわけだ。
無論、「泣いて馬謖を斬る」の逸話が、諸葛亮の作り上げた政治的コマーシャルの最大傑作だろう。
要するに、第一次北伐が失敗した最大の原因は、魏延の長安急襲作戦を諸葛亮が退けて、ゆっくりと進軍し、むざむざ魏に防衛準備をする時間を与えたことであって、馬謖が諸葛亮の命令に背いたから負けたという話は、恐らく諸葛亮のデッチあげだろう。馬謖がいったいどこに陣取っていようが、奇襲を行わなかった時点で、蜀に勝ち目は無かったのである。諸葛亮は、韓信が長安を急襲して陥落させた故事を知らなかったのであろうか。
馬謖が諸葛亮に罪を悔い、泣いて刑に服したという話も恐らくは嘘である。蜀志の隅っこに、「馬謖が逃亡した事件で免官になった」武将の話が載っており、こちらが真相だったのだろう。たぶん
馬謖は諸葛亮の参謀だったから、彼の性格をよく知っていた。それで諸葛亮が敗戦の責任を自分に押しつけることを察知して、逃亡を計ったのだろう。しかし捕まって問答無用に首を切られ、「泣いて馬謖を斬る」という美談を喧伝されて諸葛亮の保身と儒教的な正義観による戦意昂揚にに利用されてしまったのだ。
この時にまた諸葛亮は「先帝は馬謖を信用するなと遺言されていたのに」と言い出すが、蜀志の先主伝(劉備伝)における遺言にはそんなことは書かれていないし、もしこの遺言が諸葛亮によるデッチアゲだとすればいよいよ辻褄が合わないことになる。やはり諸葛亮が話を感動的にするために即興で作ったのだろう。
諸葛亮自身には軍事の才能というものは欠落しており、庖統が劉備陣営の張良として軍略を練る後方で、彼は蜀の蕭何として常に内政と補給にあたっていた。庖統が死んだ後には、法正が蜀の陳平となって漢中を獲り、諸葛亮はやはり後方で補給にあたっていた。関羽や張飛、馬超や魏延といった武将は、それぞれ蜀の韓信や黥布・彭越にあたる指揮官だった。
しかし、蜀政権は不思議なことに発足直後から次々と要人が死んでいった。
気がつけば諸葛亮、李厳、魏延ら数名だけが残っていた訳だが、本来ならば、諸葛亮は劉備死後も丞相として内政と補給を担当するべきであり、北伐は李厳・魏延といった将軍が行い、軍師は馬謖である筈だったのだ。恐らく、魏延が北伐を指揮していたら、長安は陥落していただろう。(その後維持できたかどうかは別問題だが)
ところが蕭何となるべき諸葛亮が、全く実戦も知らぬのに軍を率いたために、蜀軍は諸葛亮の性癖である「全ての人間が自分のシナリオ通りに動くだろう」という思いこみによって動かされ、臨機応変に戦うことができずむざむざ敗北したのだった。
諸葛亮が現実を認識できる人ならば、ここで自分は補給に廻っていた筈だ。だが、彼は馬謖に罪を着せて貴重な軍師を斬首してしまった上に、自分は総司令の座から降りず、李厳を補給係に回したのである。魏延は前線から更迭こそされなかったが、一万以上の兵力を持たせてもらえなかった。飼い殺しにされていたわけである。四番に清原を据える巨人打線のようなもので、これほどに適材不適所な人事を行っては、うまくいくわけがない。
諸葛亮は現実の北伐における実効性よりも、自分が先帝の遺志を継いで粉骨砕身、蜀の全てを背負って戦っているという空想的な自己イメージのほうへとのめり込んでいったわけだ。やはり、彼は、本来は空想家だったのであろう。何度補給に失敗しても、諸葛亮は屯田を実行せずに、自分で発明した木牛とか流馬とかいう妙ちくりんな新兵器によって補給を試み、そのたびに失敗している。これらがどのような機械だったかは不明だが、歴史に残らなかったということは役立たずだったのだろう。優れた発明品であれば歴史に道具として残った筈だ。諸葛亮がようやく屯田を開始したのは、最後の北伐、つまり五丈原においてであったのだ。それすらも五丈原の台地は農作に適さなかったので失敗したという説がある。
だとすれば、諸葛亮が五丈原で病死して、やむなく蜀軍が撤退したという逸話も実は諸葛亮が作り上げたシナリオで、本当は彼は生きていたのかもしれない。屯田失敗の責任を隠すべく、ついに死んだふりをしたのではないか。だから司馬懿は、本当に生きている諸葛亮を見つけて「しまった、罠だ」と勘違いして逃げ出したのかもしれない。あるいは「死せる孔明、いける仲達を走らす」という言葉自体、諸葛亮が作ったコピーなのかもしれない。諸葛亮が死んだ夜に流星が落ちたというが、これはつまり、流星の異変を逆用して自分が死んだと宣伝したのではないか。
もっとも、仮にそうだったとすれば、その後の諸葛亮がどうなったのかが判らなくなる。彼ほど独裁に執着した人間が、あっさりと引退して晴耕雨読の生活に戻ったとは考えられない。成都に帰還するなり「自分は魏を滅ぼすまでは決して死なぬ」と甦り、ますます己のカリスマ性を喧伝するに違いなく、そこまで計算しての五丈原での病死だった筈なのだ。しかし、現実に、諸葛亮は五丈原で死んで以来、二度と歴史に姿を現していない。やはり五丈原での撤退の後、ほどなく諸葛亮は死んでいるのだろう。あるいは楊儀と魏延が撤退中に内紛をやった時に巻き込まれて本当に死んでしまったのではないだろうか。
そもそもこの内紛自体が何故起きたのかが不可思議である。魏延は「演義」では孔明に反骨の相ありなどと言われていて悪人扱いだが、実際には劉備が一平卒だった魏延を見込んで張飛をさしおいてまで漢中太守に大抜擢したほどの人物であり、劉備に信服していたので謀反などありえない武将だった。劉備の死後活躍できなかったのは、単に孔明に嫌われて干されていただけである。孔明が死んだならば、軍権を当然握ることのできる武将だった。何故それが孔明の死の直後に謀反を起こさねばならないのかが謎である。また、孔明の死後、軍権を握って魏延を斬り撤退した楊儀が、そのすぐ後に失脚して自害に追い込まれているのも謎である。
いくつかのパターンが考えられる。例えば、孔明は「死して仲達を走し、ふたたび蘇る」という自己を神の領域にまで高めることのできる策謀を計画し、ことのついでに政敵の魏延を五丈原に置き去りにしようと計った。そして参謀の楊儀とともに秘密裏にこれを実行したのだが、魏延がこの詐欺に勘づいて怒って追撃してきたので斬った。魏延を斬るに至った経緯を天下に知られると評判が地に墜ちる。イメージを最も重視する孔明は今更姿を出せなくなった。そのため、秘密を知っている楊儀が邪魔になって始末した。つまり五丈原からの撤退後、しばらくは孔明は生きていた・・・
また、仲達を敗走させたあと、魏延に詐欺を見破られ、魏延に首を打たれて孔明は本当に死んでしまった、というパターンも考えられる。孔明の死後、この事実が漏れれば蜀は天下の笑いものになる、と怖れた朝廷が、孔明と共謀していた張本人の楊儀を始末した・・・楊儀は「口が軽い」というだけの理由で殺されているようなので、どちらも有り得る話ではないか。
まあそれは珍説としても、「演義」での北伐話は諸葛亮を持ち上げるためにでっちあげた嘘ばかりで、あまりの無理矢理さにとても読んでいられない。が、これら胡散臭い美談のの元ネタの多くは、諸葛亮自身の創作なのではないだろうか。魏延を仲達ともども谷で焼き殺そうと孔明が計ったという孔明にしては珍しいダーティな策謀の話が「演義」にあるが、もしかしたら現実にこのような陰謀劇があり、密かに噂になっていたのではないだろうか。そうでなければ、こういう姑息な策謀を「演義」の孔明が演じる必要性はない。
傍証だが、諸葛亮は、蜀の政府の歴史担当部門を潰しているのである。だから蜀には、正確な歴史書類が残らなかったのだ。「三國志」の中で蜀志が異常に短いのには、そういう理由があるという。諸葛亮は自分の実像を歴史に残すことを嫌い、自分が創り出した虚像だけを残すべく、出師の表など大量の美文を書き残し、これだけを保存させたのだろう。彼の代表作「諸葛亮集」がいったいどれほど凄い自己宣伝本だったのか、一度見て見たいのだが、残念ながら残っていない。
これほど権力を独裁し、政敵を粛正し、益無き敗戦を繰り返し、民草を厳しい法律で苦しめ続けておきながら、諸葛亮ほど慕われ、愛され、神聖視されている人間というのは、世界史上にも類を観ないのではあるまいか。
また、諸葛亮が「忠孝」による正義と悪を厳しく分別する儒家思想を利用して、自己を忠義の正義漢・魏を不忠の大逆臣として喧伝したために、彼が憎み続けた敵である魏の曹操は、今日に至るまで中国人民の嫌われ者にされてしまったわけである。
だから、実際の戦争では諸葛亮は曹操の魏に勝てなかったのだが、後々に残るイメージ戦争においては、彼は曹操に完勝したわけなのだ。
そういう意味で、この諸葛亮という人は、政治家としてはまことに有能で、偉大な人であったし、大衆への自己コマーシャルに異常に長けていたという点ではヒトラーを越えるほどの奸智に長けた自己宣伝の傑物だったと言って良いだろうが、やはり、根本的に彼は空想家だったのである。晴耕雨読の生活をし、発明品を作っていたほうが、彼にとっても幸せだったのだろう。それを許さなかったのは、やはり、徐州で植え付けられた曹操のトラウマだったのだろうか。
だから、曹操がアメリカ的なるものの象徴として持ち上げられるようになった戦後日本においても、曹操への恨みを決して忘れることなく自己の正義を貫き通す独裁者諸葛亮に「日本の政治家の理想の姿」のようなものを見出して感動する人が大勢いるのも、当然なのである。
そもそも「出師の表」とは、不承の子供・劉禅に父親である諸葛亮が与えた「教育勅語」に他ならないのではないだろうか。「出師の表を読んで泣かない奴は日本人じゃない!」というフレーズがあったが、確かに、戦前の日本人なら誰もがこれを読んで泣いていたであろうことは想像がつく。
それにしても、呉はパッとしないというか、やおい漫画くらいにしか使えないような人物ばかりのような気がするが、北方謙三が「呉は共産主義だ。孫権はスターリンで、周瑜はトロツキーだ!」というのもちょっと違うかもしれない。呉は豪族の連合で、これといった理念で一本化されているわけじゃないから、はっきりしない話し合いのシーンばかりになり、政策も場当たり的で、どうしてもパッとしないのだ。
多分、東の島へ渡って大和朝廷を作った人々というのは、この呉のあたりから出ていったんだろうなあ。日本人の三分の一近くは中国人のDNAを持っている(残りは朝鮮・韓国人と東南アジア人とアイヌ・クマソ系で、日本人独自のDNAを持っている人は全体の5パーセントくらいしかいない。つまり各地からの移民の連合集団である日本民族というものは他の民族に比べてもはるかに幻想性が強く、民族のアイデンティティを保持させるための現実的な基盤が薄弱だったが故に天皇を民族の親に仮定するという政治制度としての疑似家族制が定着し、ついには現代にまで存続したのだろう)らしいが、きっと厳密に調べれば呉とか楚にルーツがある人が多いと思う。
蛇足だが、日本人が多種多様な民族から構成されていることは顔をみればたちまちわかる。僕本田は縄文アイヌ系、覇王さんは朝鮮系、朝山さんは中国系、そして岸田秀師匠はどこからみてもベトナム人だ。これらがみな先祖代々から「日本人」なのだが、DNAを解析すれば、いろいろ混じっているとはいえ、基本ベースには観たまんまのルーツを持っているであろうことは間違いない。覇王さんは「俺は目が二重だから縄文人だ」と仰るが、目だけやがな!
最近、日本民族のプライドを復権しようという声をよく聴くが、そろそろ日本民族というものが幻想であることを認めて、ここは多人種国家アメリカを見習い、民族性ではなくなにがしかの理念・思想を国家のアイディティに据えるべきではないだろうか。中華思想、とくに朱子学はもうやめたほうがいいと思う。いずれにせよ、米ソの思想対立が終結したので、今後は、民族紛争が最大の問題になるんだろう。それとも宗教戦争かな。
ともかく、諸葛亮のように儒教的正義を掲げる政治家が出てきたら、注意することだ。私財を蓄えていないとか、親孝行だとか、そういうことは現実の政治とは一切関係ない!! どんな政治理念を持ち、どのような政策を立てて実行するかということだけが政治家に求められるべきなのだ。いや、諸葛亮や野村監督を観れば判るように、いちいち儒教的正義を掲げる人間ほど、実際は胡散臭いのである。こんなことで21世紀は大丈夫なのだろうか。
〜加筆分〜
あと、曹操だけど、「演義」で不当に貶められているのはかわいそうだし、たいした大人物だとは思うが、今、曹操を持ち上げている人達の持ち上げ方も何やら滑稽というか、こちらもひいきのフィルターをかけまくっていて、とても史実通りに曹操を描いているとは思えない! だいたい「蒼天航路」の曹操は外見がカッコ良すぎる。曹操はチビでだらしがない酔っぱらいで威厳がなくて、つまり外見と礼節で人間を評価する当時の中国の価値観から言えばダメ人間にしか見えなかったのだ。「蒼天航路」や横山版「三國志」のようなニヒルな二枚目の訳がないのだ。結局、これらの「英雄曹操」像は、アメリカから輸入した「かっこいい男」のイメージを曹操に投影しているだけで、実像とは全くかけ離れている。武勇とか威厳とかのかけらもない人だったのだ。その上、宦官の孫という出自のコンプレックスもあった筈だから、実際の曹操は異常なほどに屈折した男だった筈なのだ。だから仕事もせず家に閉じこもって孫子マニアになったり詩人になったりしたのだろう。あえて言えばオタク系だ。
しかし、武将でありながら芸術家でもあったから曹操は偉い、というのも、何か根本的に間違っているような気がする。僕の考えでは自己の私的幻想を現実よりも重視する芸術家が政治家になったら、ロクなことがない。ヒトラーは、政治家になる前は画家だったし、総統になってからは素晴らしい建築芸術を建造し、また女性を監督に抜擢して見事な映画芸術を作り上げた・・・だからヒトラーは立派な政治家だった、とか、大人物だった、とか、今言う奴はいないだろうと思う。
また、曹操が身分人格のへだてなく才能を愛した人材マニアだから立派だ、というのも変で、ヒトラーがゲッペルスだのヒムラーだのといった奇才を取り立てまくったからといって、ヒトラーが立派だとは誰も言わないだろう。部下だって、ゲッペルスという宣伝大臣はまさに歴史に残るコマーシャリズムの天才だった上にヒトラーが死ぬ際に家族全員で殉死するという近代人とは思えない忠義の士だったが、誰も誉めないよな。
何故ヒトラーが誉められないのかというと、戦争に負けたからというよりは、大勢の民衆を殺しまくったからだろう。大量殺人というのは、「大東亜共栄圏」だの「ドイツ1000年帝国」などという立派な思想があり、素晴らしい遠大な思慮があろうとも、殺される側の民衆にとってはトンデモナイ、人でなしの狂人がしでかした厄災でしか無い。
曹操が中国の民衆にこれだけ嫌われた理由の一つに、間違いなく、親父の仇をとるとかいう訳のわからない芸術家らしい理屈に基づいて、白装束の軍隊で徐州に入り、民衆を堵殺しまくったことがあるだろう。白装束の部隊で堵殺というのがいかにも芸術家らしくて映画にすればカッコいいが、こんなKKKみたいな格好の連中に現実に堵殺されるほうはたまらない。
僕が一番「曹操英雄論」みたいな風潮でむかつくのが、誰もかれも、この曹操の徐州での所行について筆をぼかして誤魔化していることなのだ。何やら、「南京大虐殺は無かった」とか「中国に侵攻した日本にも正当な理由があったのだ」などと吹聴されている気分になってしまうのだ。と同時に、原爆を落とし腐った鬼畜どもにいつまでもヘコヘコしなければならない日本人が自我を安定させるためにそういう曹操を「個人を超越した立派な政治家」として崇めなければならなくなったのかなあ、とも思うのである。「秘本三國志」の曹操は、単に怒りに我を見失ってわけもわからず民を虐殺し、新興宗教の教祖に叱られて正気を取り戻すという描かれ方で、要するに「心神喪失で無罪」という論法。心神喪失つまりキチガイが無罪になるのは近代ヨーロッパ以降であって、当時の中国にそんな思想は無い!
だが「秘本三國志」はそれでもまだマシだ。「蒼天航路」では「父親を殺されてカッとなって狂った」という理由すら書き換えられ、「父親なんてどうでもいいが、曹操が考える遠大な理想のためには数十万の犠牲などいよいよどーでもいい」的な「ビッグマン思想に大衆は従っていけばそれでよい」といういつもの「モーニング論調」。つまり父親の死にかこつけて、何の罪悪感もなく、例のモーニング笑顔で微笑みながら自己の理想のために民衆を殺しまくったというのだ。曹操を偉大に描いてるつもりなんだろうけど、こんな偉大なカリスマは絶対にご勘弁だ。第三帝国建設のためにユダヤ人を殺し捲ったヒトラーとどう違うんだか。まだ「親父を殺されて狂った」ほうが人間らしくてマシである。
チビでだらしがなくてオタクで女好きで戦争中に詩なんか読み出す分裂性格で、その上親父を殺されるとトチくるって虐殺をはじめる困った人・曹操。その姿をありのままに描けばまことに魅力的だと僕は思うのだが、世の「曹操ファン」は要するに自分の理想に都合のいい曹操像を彼に押しつけているだけで、ちっとも実際の曹操を再評価しようとしていないのではないだろうか。というか、これでもかこれでもかとウソばっかり書いて、本物の曹操を貶めている。まるで、尾崎豊とそのファンの関係みたい。尾崎は凄く面白い奴だと思うんだけど、ファンが掲げる「尾崎像」があまりにも現実とかけ離れていて、僕はうんざりしているのだ。それってただの「ザ・ファン」じゃないのか? 「興亡三國志」なんて曹操がただの「いい人」で、馬騰の首もはねないのだ。論外! 曹操が馬騰を騙し討ちにしたので馬超が復讐に立ち上がるという「演義」話も大ウソだけど、これじゃあ話として面白くなくなってるからよけい酷い。霹靂車を曹操が作ったなんて言い出す「秘本三國志」もかなり問題だが、曹操がチビだとちゃんと書いてるからまだ全然マシ。さすが六甲の産んだ大作家・陳舜臣先生。っていうか「蒼天航路」とか最近の三國志モノ(我王の乱をのぞく)って、全部「秘本三國志」が元ネタなんだよね。この小説、曹操ときんさんぎんさん以上に長命な五斗米道の教母のババアばかり持ち上げて、逆に趙雲が曹操の親父を殺した人間の屑だったりするので、いまいち評判悪いんだけど、曹操を誉めるための邪推満載でとてもいいですよ。例えば呉に捕まった関羽が急性耄碌、つまりボケてしまって涎を垂れ流すあたり、酷いです。劉備は曹操のスパイとして袁紹や劉表を内側から破滅させるし、南蛮征伐も五丈原も孔明の仕組んだ八百長だし、曹操が勝つシーン以外は全くカタルシスゼロ。これは何度読んでも楽しいです。こんな無理矢理な話なのに「蒼天航路」と違って読後感がいいのは、曹操がちゃんと人間として描かれてるからかなあ。
で、逆に、儒教的粉飾をほどこされて、とてもしょーもない人として描かれてきた劉備は、曹操ファンの手で次々とダメダメで胡散臭い実像を暴かれるにつれて、ますます魅力的になってきたではないか。最近の「蒼天航路」の劉備のダメダメぶりは本当に素晴らしい。「蒼天航路」の色魔孔明が「曹操は偉いが、あんたは天下の寄生虫、ウジ虫以下だ」「あんたは民衆の笑顔が好きなんじゃなくて、自分に笑顔をみせてくれる民衆が欲しいだけ」とクソミソに言えば言うほど、それに対してエエおっさんのくせに「うわーん」と泣きじゃくる劉備をみればみるほど、ダメ人間劉備のヘンな魅力は大きくなっていくのである。たぶん本当にあんなダメなオッサンだったんだろうなー。庶民派じゃなくて、ただのオッサン。大阪でノック知事に票が集まるのと同じやね。ノックは生きた時代が悪くて失脚したけど。曹操が「三國志」のヒトラーなら、劉備は「三國志」の横山ノックなのだった。とすれば関羽は義の人・西川きよしで、張飛はやっぱり、やっさんか? 張飛といえば、張飛が夏侯淵の親戚の少女を誘拐して育て、とうとう結婚してしまったというエロネタも笑えるのに誰も書かないので、なんか残念だ。悪いやつだなー。たぶんこの女の子にも鞭をビシバシ食らわせてたんだろうなー。(3/25 ほんだ)
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